ローマ暮らしとものづくり
たまたまローマに5年間
わたしは2000年から2005年までの5年間イタリアのローマに暮らしました。30代前半のことです。そこから直接なにかが起こることもありませんでしたが、5年間で私が得た経験はおそらくとても大きいものだったと、それを振り返りたいと思います。
私が学んだ香山壽夫先生の研究室には大勢の留学生がいました。先生も海外滞経験が長く、私は海外で暮らし働く経験を積むことが、留学生たちとのより深いコミュニケーションを可能にし、また自分がデザイナーとして成長するのにも必要だと強く思っていました。当時ローマからの留学生がいたこともあり、なんとかローマで仕事先を見つけてローマでの生活が始まりました。
ケヴィン・ウォルツというデザイナー
最初はイタリア人建築家の事務所で働きましたが、組織はちゃらんぽらんで、実務の点でも日本の設計事務所に比べてぜんぜん勉強にならない。もともとイタリアでのものづくりに興味があった私は、アメリカ人デザイナー、ケヴィン・ウォルツのアシスタントとして働きはじめました。彼のアトリエがあまりに美しかったから。
ヴァティカンにほど近い、長屋のもと馬屋を改修したというそのアトリエは、ローマレンガのカウンター、スチール型材でつくった建具、モルタルの床に彼がデザインしたコルクの家具がいくつかあるだけのシンプルな、でも私にとっては理想の空間でした。馬屋の扉だったという板をテーブルにして、コルク樫の皮にサラダを盛って、毎日外でケヴィンがつくるランチを食べました。
ケヴィンの顧客は裕福なアメリカ人が中心で、イタリアでこそ手に入る素材や手仕事のディテールを巧みに生かして、家具や特注のシーツなどもデザインしていました。ソファ張りはローマの家具通りに工房を構える南米出身の職人に頼んでいました。ローマで手に入るアフリカのプリント生地もよく使っていました。ある年はそれらの端切れで、クリスマスプレゼント用にナプキンを縫いました。美しい素材があり、職人が近くにいる、理想的な環境でした。
アートとものづくり
ケヴィンはもとはグラフィックアートを志し、後にインテリアデザイナーとしてニューヨークで成功した人です。私はローマの事務所でプロダクトやインテリア設計の補佐をしていましたが、ちょうどそのときに9.11が起こったのです。彼は取り憑かれたようにアート制作を再開しました。
アートにおける彼のアプローチは、人間が視覚で捉え頭の中に描く像を2.5次元的に再構成するもので、素材としてイタリア軍の古シーツやデニムを着彩した布を縫製して使いました。一時期、私はくる日もくる日もアート作品のミシン掛けを行っていました。
これは16世紀のパラッツォでのKevinの作品「Insomnia」の展示風景です。不眠のベッドから見える部屋の風景を、デニムに細かいボールペンのストロークで着彩し縫製したもの。ケヴィンは悩んだ挙句に展示室の壁面を深い青色で塗装することにしましたが、その見せ方は華麗な天井画との対比も見事でした。(このあと白く塗り戻されました。)
ケヴィンが9.11後にアート製作に戻ったようにアートはメッセージがコアにあるもの。アートと建築は違うものですが、常にアートからの刺激を大切にしつつ、空間づくり・ものづくりのコアを育んでいきたいと思っています。
ウンブリアの農家から学ぶこと
もう一つ、ケヴィンのもとでウンブリア州の石造農家の改修プロジェクトを補佐しました。クライアントはアメリカ人夫婦です。
もとの建物は半分斜面に埋まり、下階は家畜、人間は上階に住んでいました。それを斜面から2階建てのボリュームを切り出すように、建物の周囲にオープンスペースをつくり、内部は上下階をつなぐ階段、小割りされたセルを行き来する通路をつくって一体化させる計画です。
施主とともに旧市街グッビオに出かけて、金物や煙突などのディテールを採集し、アレンジする。それを現代の職人が製作しました。地元の石工が石壁を積み直し、屋根の木トラスや木建具などの木造作は近所の大工がすべて工房で製作、外部手摺や金物、シンクの脚はやはり近隣の鍛冶屋がつくりました。
日本で木を扱う職種が多種あるように、イタリアでは石を扱う職種がたくさんあります。こちらのシンクは旧市街の噴水も手がける職人の手仕事です。
建物には現代の技術である断熱材も床暖房も取り入れていますが、素材、職人の技術では100年前とほとんど変わらない部分も多くあります。新旧の要素が対立することなくインテグレートされ、古いのか新しいのかわからない、そのような空間は美しいと感じます。職人の技術があってこそ活きるもの。そのようなデザインのあり方を追求したいと思います。